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ふたたび、見ると聞く [『一念多念文意』を読む(その19)]

(6)ふたたび、見ると聞く

 窓の外に、たぶん百舌でしょう、小鳥が柿の小枝にとまっています。それをぼくは部屋から見ているのですが、百舌は言うまでもなくぼくの外にいます。そもそも外にあるものしか見ることはできません。何かを頭の中に思い浮かべることはありますが、それを見るとは言わないでしょう。
 ところが、バッハの平均律を聞くとき、その旋律とぼくは一体です。
 ちょっと待った、と声がかかるに違いありません。その旋律も百舌と同じように、きみの外にあり、それをきみは耳で聞いているのだから、目で見るのと同じことだよ、と。なるほど、平均律のCDはぼくの外にあります。お望みなら、ディスクから流れてくる音波もぼくの外にあると言いましょう。でも、あの旋律とぼくは一体です。
 まだ納得していただけないかもしれません。ものの形を見、ものの音を聞く、ここにはまったき相似性があります。ですから、どちらもぼくの外にあると思う。遠くに見えたり、近くに見えたりするように、遠くで聞こえたり、すぐ近くで聞こえたりしますから、ますます音も外にあると思います。また目を閉ざせば見えなくなるように、耳を閉ざせば(たとえば耳栓をすれば)聞こえなくなります。どこからどう考えても、見るも聞くも同じ構造をしているように思えます。向こうに見られる客体、聞かれる客体があり、こちらに見る主体、聞く主体がある、と。
 しかし、この「主体-客体構造」の根本には、見ることの越権があるような気がしてなりません。見ることの帝国主義です。見ること(眼識)が、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触ること、そしてこころに思うこと(耳識、鼻識、舌識、身識、意識)のすべてを支配して、一様に「主体-客体構造」を押し付けているということです。

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