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『一念多念文意』を読む(その20) ブログトップ

見ることの帝国主義 [『一念多念文意』を読む(その20)]

(7)見ることの帝国主義

 何かを見るとき、そこには「見る主体」と「見られる客体」があります。つまり見ることはそもそもからして分離することなのです。でもたとえば味わうことはどうでしょう。味わう食べものは味わうぼくの外に見えていますが、でも「うまい」とか「まずい」と思うのはその味です。そして味はそれを味わっているぼくと切り離せません。
 ぼくがよく言うことなのですが、「うまい」という文は「これはうまい」の省略形ではありません。「うまい」が元来のかたちで、それに「これは」をつけ加えて強調しているのです。日本語は主語を省略することが多いといわれますが、文章には主語がなければならないと考えるのは偏見ではないでしょうか。「これはうまい」が省略されて「うまい」となったのではなく、「うまい」だけで完結した立派な文章です。「どれが?」という問いを想定して「これがうまい」と丁寧に言ったリ、あるいは「とてもうまい」と言おうとして「これはうまい」と強調形にしているのです。
 こちらにぼくがいて、あちらにうまいものがあって、で、「これはうまい」となるのではないということ。端的に「うまい」のであり、そこではうまいと思うぼくとうまいと思われているものとは一体不離です。ところがここにも「見る主体」と「見られる客体」の図式があてはめられ、味わう主体と味わわれる客体に分けられることになります。これを見ることの帝国主義と言っているのです。このことは味わうことだけでなく、聞くこと、嗅ぐこと、触ること、こころに思うことにも言えるのではないでしょうか。
 聞くことに戻ります。聞こえる声と聞くぼくとは切り離せませんから、そこに疑いの入り込む余地がないということ。疑うということは、疑わしいものと疑うぼくとが切り離されていることに他なりません。その隙間に疑いが忍び込むのです。隙間がなければ疑いは入り込めない。ここでとうぜん異義申し立てが出るでしょう、何か声が聞こえたが、あの声は何だろうと疑問に思うのはごく普通のことではないか。それは向こうに何か見えるが、あれは何かと疑うのと同じではないか、と。

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