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『一念多念文意』を読む(その21) ブログトップ

主体-客体構造 [『一念多念文意』を読む(その21)]

(8)主体-客体構造

 なるほどぼくらは何か声が聞こえますと、それはどこから来るのかと思うことがあります。それはしかし声の源を探っているのです。何かいい香りがするが、何の香りだろうという場合も同じで、香りの源は何かを探しています。いい味がするとか、いい手触りという場合にはこういうことはないでしょう。いい味がするもの、いい手触りのものは目の前にあるからです。声と香りは、見えないところから来ていることがありますから、こうした疑問が起こるのです。
 向こうに見えるものは何だろうと思うのも、見えるものとの間に距離があって、何であるか定かでないということです。「何が見えるのだろう」と「何が聞こえるのだろう」とが似ているのはそこですが、しかし決定的に異なるのは、前者の場合、見えるもの(仏教では色と言います。以下、耳に対して声、鼻に対して香、舌に対して味、身に対して触、意に対して法となります)そのものを探っていますが、後者では、聞こえる声を探っているのではなく、それがどこから来るか、その源を探っていることです。つまり「見る」の場合は、見えるものしかありませんが、「聞く」の場合、聞こえる声とは別にその声の源があるということです。
 しかし、ここで根本的な疑問が生じます。どうして声が聞こえたら、その源があることになるのでしょう。声があるだけでいいのではないか。ここにも見ることの帝国主義があるのではないでしょうか。つまり、何かが聞こえるからには、それは見えなければならない、聞こえるだけで見えないなどということはあってはならないという強烈な意志を感じるのです。同様に、香るだけで見えないこともあってはならない。こうして眼識は、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の一切を支配し、その結果として「主体-客体構造」を押しつけるのです。

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