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ただほれぼれと [『一念多念文意』を読む(その22)]

(9)ただほれぼれと

 何か声が聞こえたら、その源があるはずだということは認めましょう。というより、ぼくらはそう考えるよう刷り込まれているのですから、それにいまさら文句をつけてもどうしようもありません。で、声が聞こえるのに、その姿が見えないときは、この声はどこから来るのだろうと辺りを見回します。しかし、その疑問は、先ほど言いましたように、何かが見えるときに、それが何だろうと探る場合とは根本的に異なります。
 何かを「見る」とき、「それは何か」という疑問は答えられなければ一歩も先に進めない本質的な問いですが、何かを「聞く」ときは、「それはどこから来るか」という疑問はいったん括弧に入れたままにすることができます。とりあえず声は聞こえていて、そのこと自体は天地がひっくり返っても確かですから。
 散歩道で老夫婦からかけられた「こんにちは」が「そのまま生きていていいよ」と聞こえたところに戻ります。その声はぼくをうっとりさせるものでした。『歎異抄』のことばをつかいますと、ぼくは「ただほれぼれと」それに聞き入りました。たしかにそれは不思議なことです。老夫婦がかけてくださったことばは「こんにちは」なのに、それが「そのまま生きていていいよ」と聞こえるのは尋常ではありません。普通には聞こえない声が聞こえたのです。源左にとつぜん「源左たすくる」の声が聞こえたのも不思議なことです。でもそのとき源左は思わず「ようそこ、ようこそ」と応えた。
 不思議の感はあとでやってきます、あれはいったい何だろう、あの声はどこからやってくるのだろう、と。そしてはたと思い当たるのです、「あゝ、あれが本願の声なのだ」と。そうか、親鸞が「あひがたくしていまあふことをえたり」と言っていたのはあのことなのかと思う。もちろん、そこには疑いの余地があります。誰かがきっとささやくでしょう、「ひょっとしたら、悪魔の声かもしれないよ」と。そうではないと言う根拠は何もありません。なにしろ声の主は見えないのですから。でも、それに対しては親鸞とともに答えたいと思います、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と。

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