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願生彼国 [『一念多念文意』を読む(その24)]

(11)願生彼国

 本願成就文の後半です。「至心回向」を「(われらが)至心に回向して」と読まずに「(弥陀が)至心に回向したまへり」と読むのが親鸞でした。回向は「こちらから」ではなく「向こうから」、ここに親鸞の他力思想の真髄があります。さてしかし、ここが急所だからこそ、さまざまな疑問が湧き起ってきます。すべて「向こうから(弥陀から)」やってくるといっても、往生を願うのも、本願を信じるのも、名号を称えるのもみなわれらです。なのに、願生も、信心も、念仏も、何から何まで全部「向こうから」やってくるというのはどうにも合点がいかない。
 この急所を外さないように考えていきたいと思います。
 「願生彼国」を親鸞はこう噛み砕いてくれます、「よろづの衆生、本願の報土へむまれむとねがへとなり」と。「かの国に生まれんと願えば」と読み下すところですから、往生を願いなさい(そうすれば往生できます)ということですが、この「ねがへとなり」という親鸞の言い回しにはもうひとつ深い意味が宿っているように感じます。ただたんに「願いなさい」と勧めているのではなく、「願わしめる」という「使役」のニュアンスがあるように感じるのです。
 ただ「願いなさい」と勧めるのでしたら、その勧めに応じるかどうかはこちらに委ねられています。素直に応じるのもよし、「そんなの嫌だよ」とそっぽを向くのもよしです。実際、「願うだけでいいのですよ」などと言われたら、ぼくのような天邪鬼は「いや、ぼくは結構です」と言いたくなります。しかしそうではなく、「願わしめる」ということでしたら、もう否も応もありません、はじめからそのように仕向けられているのですから。浄土教ではこの「せしめる」という使役法をよく使うような気がしますが、他力を表現するのに適しているということでしょう。

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