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第18願も実は使役 [『一念多念文意』を読む(その26)]

(13)第18願も実は使役

 さて法蔵菩薩は「しっかり信じ、しっかり念仏しなさい、そうすれば往生できますよ」と言っているのでしょうか。そうではないと親鸞は教えてくれます。先ほどの「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」は唯円が書いた文章ですが、もし親鸞がこれを見たら(『歎異抄』は親鸞が亡くなった後に作られていますから、それはかないませんが)、「まうさば」を「まうせば」と訂正するのではないでしょうか。そして「われらが信じ、われらが念仏するのではありません、信心も念仏も如来から賜ったものです」と諭しているのではないか。
 ではどうして第18願は使役法をつかわず、われらが信じ、われらが念仏すれば、往生できると受け取られるような言い回しになっているのでしょう。
 それは法蔵菩薩が誓願を立てているシチュエーションを考えてみれば納得できます。法蔵はわれらに語っているのではありません、世自在王仏に向かって「かくかくしかじかであるようにしたいと思います、そうでなければ正覚をとりません」と誓っているのです。それを頭においてもういちど第18願を見れば、「十方の衆生が、心から信じて、わが国に往生したいと思うようになり、十回も念仏して、わが浄土に往生するようにしたい」と読めます。つまり信心することも、欲生することも、念仏することもすべて法蔵によってはからわれているということです。
 第18願も実は使役だということ、信心も欲生も念仏も法蔵がそう「せしめている」ということを確認した上で、成就文に戻りましょう。「願生彼国」です。親鸞はこれを「本願の報土へむまれむとねがへとなり」と解説してくれたのでした。法蔵が「ねがへと」命じているということは、たんに「願いなさいよ」と勧めているのではなく、そのように「願わしめている」ということに他なりません。学校の先生でしたら、「しっかり勉強しなさい、そうすればテストに合格できますよ」と言うのではなく、「しっかり勉強するようにさせて、テストに合格させてあげます」と言ってくれるということです。

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