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うべきことをえたり [『一念多念文意』を読む(その29)]

(16)うべきことをえたり

 「うべきことをえたり」が、「いままで得ようと思っていたものを、ただいま得てしまった」という意味でしたら、ありふれたことで、どうってことはありませんが、そういうことではないでしょう。あるいは「これから先に得る予定だったが、どういうわけか、予定が変わりすでに得てしまった」ということでもありません。そうではなくて、「これから」しか得られるはずのないことを「もうすでに」得てしまったということです。
 しかしそんなことがどうしてありうるのか。「これから」が「これから」でありつつ、同時に「もうすでに」であるなどということはわれらの理解を絶しています。
 このことは、これまで見てきました、われらが往生(救い)を願っているに違いないのだが、実は弥陀から願うようにさせられているということとつながっています。われらが願うのは「これから」のことです。言うまでもありませんが、われらは「これから」のことしか願えません。しかし弥陀から願うようにさせられているのは「もうすでに」です。そして弥陀から願うようにさせられているのは、弥陀の願いがたしかにわれらに届くためです。弥陀がどれほど願っても、ただそれだけでは何ともなりません。それをわれら自身が願ってはじめて力になります。ただの本願が本願力になります。ですから弥陀はわれらに願うようさせなければならないわけです。
 さて、弥陀が願い、さらにわれら自身にも願うようにさせているということは、その願いは実のところ「もうすでに」実現しているのではないでしょうか。経典ではそのことを本願は十劫の昔に成就したと表現しています。法蔵菩薩は一切衆生を往生させるまでは仏にならないと願い、そしてその願いがめでたく成就して阿弥陀仏となった。としますと、もう一切衆生の往生という願いは実現しているということです。われらは往生を願います。そのとき往生は「これから」のことです。でも、実はわれらの往生は「もうすでに」実現しているのです。

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