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「これから」のことが「もうすでに」 [『一念多念文意』を読む(その30)]

(17)「これから」のことが「もうすでに」

 経典に「法蔵菩薩の物語」として説かれていることを身近に引き寄せて捉えてみましょう。
 ぼくは野生の動物たちの生きざまを見るのが好きで、そういうテレビ番組をよく観ます。ペットや動物園の動物たちではなく、アフリカなどの原野で自由奔放に走り回っている動物たちの姿、そこにはぼくらが普段眼を覆って見ないようにしている現実がそのまま露出しています。「食いつ食われつ」の現実です。草陰にじっと身を潜めて獲物を狙うヒョウと、それとは知らず、群れをつくって静かに草をはむシマウマ。突如ヒョウは躍り出て、狙いすました獲物めがけて突進します。かくして…。
 ぼくらはとかく判官びいきで、シマウマを哀れに思い、口の周囲を血で真っ赤に染めているヒョウを憎たらしく思います。しかし末期を迎えるシマウマの澄んだ眼を見ていますと、彼らはそんなぼくらの思いとは別世界に生きている気がしてきます。ヒョウもシマウマも、何としても「生きよう」と必死です。ヒョウはこの獲物を仕留めずにはおくものかと必死ですし、シマウマは追っ手から逃げようと必死です。でも同時に、そんな「食いつ食われつ」の中でも、「生かされている」ことに自足しているように思えるのです。「これが生きるということなのだ」と悟っているように見えるのです。
 いのちたちは「生きよう」と必死になりつつ、同時に「生かされている」ことを喜んでいる。「生きよう」とするのは「これから」のことです。でも「生かされている」のは「もうすでに」です。「これから」が「これから」でありつつ、同時に「もうすでに」であるという不思議がここにあります。

                (第2回 完)

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