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正定聚のくらゐ [『一念多念文意』を読む(その32)]

(2)正定聚のくらゐ

 おさらいしておきますと、隆寛が本願成就文、「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」を引用し、「ひとへに多念にてあるべし」と説くのはこの経文に背くことになると述べているのを受けて、親鸞が本願成就文を丁寧に解説してくれたのでした。
 先回のところで親鸞はこの文の意味するところを字句に沿ってきっちり押さえていき、最後に「即得往生」について「(真実信心の人を)無碍光仏の御こころのうちに…おさめとりたまふとき、すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、『往生をう』とはのたまへるなり」と注釈してくれました。
 今回の文が「しかれば」で始まりますのは、信心を得たそのときに「正定聚のくらゐ」につくということを、本願成就文を離れてより広い文脈から明らかにしていこうということです。ここで引用されるのは『無量寿経』と『如来会』から第11願すなわち「必至滅度の願」、そして『無量寿経』からその成就文です。
 その経文そのものについてはここでは触れません。とりわけ成就文の「生彼国者」は伝統的に「かの国にむまるれば」と読まれてきたのを、親鸞は「かの国にむまれむとするものは」あるいは「かの国にむまるるものは」(証巻)と読む(いや、親鸞はそう聞いていると言うべきでしょうが)ことの意味については前に述べましたので繰り返しません。結論として親鸞はこう言います、「すなわち往生すとのたまへるは、正定聚のくらゐにさだまる」と。
 ここで考えたいのは正定聚という可思議な立ち位置についてです。

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