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往生が約束される [『一念多念文意』を読む(その33)]

(3)往生が約束される

 先回、「願生彼国」のときが「即得往生」であることの不思議についてあれこれ思い巡らしました。「これから」往生することを願うのに、願ったそのとき「もうすでに」往生しているという不思議。普通はそんなばかなことはありません。病気が治ることを願ったそのときにもう病気が治っているなんてことがあるはずがありません。それは時間の秩序をひっくり返すことです。
 その理不尽さを取り除く鍵として登場するのが正定聚という概念です。往生したいと願ったそのとき実際に往生しているというのでは、その不可解さについていけませんが、往生したいと願ったそのとき「往生することが約束されている」ということになりますと、不可解さがかなりやわらぐのではないでしょうか。
 正定聚とは仏になることが約束されている仲間(聚)という意味です。後段に出てくる弥勒菩薩は、釈迦の次に仏となることが決まっていますから正定聚です。あるいは一生補処とも言いますが、それは、この生ではまだ仏ではないが、この生を終えたあとに仏の座につく(空処を補うということで補処といいます)ことが決まっているということです。それが何と五十六億七千万年の後だそうで、インド人の時間の感覚には呆れるしかありません。ともあれ、まだ仏ではありませんが、仏になることが決まっていますから弥勒菩薩を弥勒仏と呼ぶこともあります。
 で、親鸞は、往生を願ったそのとき、実際に往生するわけではないが、往生することが約束されている正定聚のくらいにつくのだと言うのです。なるほどこれで理不尽さ、不可解さはかなり緩和されます。「これから」がそのまま「もうすでに」だというのではさすがについていけませんが、往生自体はまだ「これから」先のことで、今生では往生が約束されるだけということでしたら、「ふうむ、そういうこともあるかな」と思えるかもしれません。

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