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カルヴァンの予定説 [『一念多念文意』を読む(その34)]

(4)カルヴァンの予定説

 しかしことはそう単純ではありません。「これから」と「もうすでに」の相克がなくなったわけではないのです。
 病気の例で言いますと、病気が治ってほしいと願ったそのときに、治ることが約束されるということになるでしょうが、世の中そんなにうまくいくものでしょうか。医者に「早く治ってほしいと思います」と訴えると、「治りますから安心してください」と言われる。医者としては何の根拠もなくそう言っているのではないでしょうが、しかし「絶対治る」と保証することはできないはずです。病気が治るのは「これから」のことですから、それについて確実なことを言うわけにはいきません。明日の降水確率は0パーセントですと言われても、土砂降りになる可能性を否定することはできません。
 しかも、医者や気象予報士が将来を「予想する」のと、弥陀が往生を「約束する」のとでは根本的に異なります。医者や気象予報士が予想するというのは、これまでのデータをもとにこれまではこうだったから「これから」こうなるだろうと推測するのですが、弥陀が約束するというのは「もうすでに」そうなっていると請合うことです。
 法蔵菩薩が、ひとりの例外もなくみなわが国に往生させたい、そうでなければ仏にならないと誓い、それが成就してめでたく阿弥陀仏となったのは十劫の昔です。このようにして十劫の昔に一切衆生の往生が約束されたのですから、われらが往生するのは「これから」でも、往生の約束は「もうすでに」なされているのです。
 カルヴァンの予定説が頭に浮かびます。彼が言うには、救われるか否か(天国に行けるかどうか)は、われらが生まれる前から「もうすでに」決まっているのです。ある者は救われ、ある者は救われない。それは神により前もって定められていますから、この世においてどれほど善行を積もうが、どれほど悪業の限りを尽くそうが、そんなことは神の予定に何の関係もありません。救われる者は救われ、救われない者は救われない。しかも自分がそのどちらに属しているかを知るすべがありません。

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