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『一念多念文意』を読む(その37) ブログトップ

本文5 [『一念多念文意』を読む(その37)]

(7)本文5

 この真実信楽(しんぎょう)は他力横超の金剛心なり。しかれば、念仏のひとおば、『大経』には「次如弥勒(しにょみろく)」とときたまへり。弥勒は竪(しゅ)の金剛心の菩薩なり。竪とまふすは、たたさまとまふすことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。横はよこさまにといふなり。超はこえてといふなり。これは仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、真実報土のきしにつくなり。「次如弥勒」とまふすは、「次」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、弥勒は大涅槃にいたりたまふべきひとなり。このゆへに弥勒がごとしとのたまへり。念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにといふは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚(みょうかく)のくらゐにいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他力信楽のひとは、このよのうちにて不退のくらゐにのぼりて、かならず大般涅槃(だいはつねはん)のさとりをひらかむこと、弥勒のごとしとなり。

 (現代語訳) 真実の信心が定まった時に正定聚の位につくという、その真実の信心は、他力横超の金剛心です。ですから念仏の人を『大経』では「次いで弥勒の如し」と説かれているのです。弥勒は横ではなく竪の金剛心の菩薩です。「竪」とは「たてさま」ということばで、聖道門の自力難行道の人のことです。「横」は「よこさま」ということで、「超」は「こえて」ということです。これは、仏の大いなる願船に乗せていただけば、生死の大海をよこさまに超えて、真実の浄土の岸に着かせていただけるということです。「次如弥勒」と言いますのは、「次」は「ちかい」ということ、「つぎに」ということです。「ちかい」と言いますのは、弥勒は大いなる涅槃に至るべきひとですから、信心の人を弥勒のごとしと言われるのです。念仏信心の人も大涅槃に近づくのです。「つぎに」と言いますのは、弥勒は釈迦仏の次に、五十六億七千万年を経て仏の位につかれるということです。「如」は「ごとし」ということで、他力信楽の人は、この世において不退の位に至り、必ず仏の悟りを開くことになっているのですから、弥勒の如しと言うのです。

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