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よこさまにこえて [『一念多念文意』を読む(その38)]

(8)よこさまにこえて

 「もうすでに」往生が約束されているが「これから」往生する。これが正定聚ですが、この「もうすでに」と「これから」の双方が生きるためには「ただいま」が必要だということを見てきました。「ただいま」本願に遇うこと、「ただいま」約束の声をしかと聞くこと、それによりはじめて「もうすでに」も「これから」も他ならぬこの身に起こるということです。
 それを言い換えますと、「ただいま」本願に遇うことが、取りも直さず「もうすでに」往生が約束されているということであり、また「ただいま」約束の声を聞くことが、この自分が「これから」往生できるということです。こうして「もうすでに」と「これから」が「ただいま」を介して一点につながってしまう。
 これが「よこさまにこえて」ということです。
 「仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、真実報土のきしにつくなり」とあります。本願力の船にのり、生死の海をこえて、浄土の岸につくと聞きますと、目の前に広大な生死の海がひろがり、そして「もうすでに」・「ただいま」・「これから」とつづく時間の流れがイメージされます。「こえる」そして「つく」ということばには、時間の流れが含意されているからです。
 しかし「よこさまに」ということばは、そうした時間の流れをスパッと断ち切る響きがあります。「もうすでに」から「ただいま」へ、「ただいま」から「これから」へとつづくのではなく、「ただいま」の中に「もうすでに」があり、さらに「ただいま」の中に「これから」がある。「ただいま」の中に時間のすべてが凝縮されているのです。

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