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『想像ラジオ』 [『一念多念文意』を読む(その39)]

(9)『想像ラジオ』

 まず、「ただいま」の中に「もうすでに」があるということ。
 「あひがたくしていまあふことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」(『教行信証』序)という親鸞の述懐は、その辺りの微妙な消息を言おうとしています。遇えたのは「いま」なのに、実は「すでに」遇っていたということ。
 源左に「源左たすくる」の声が聞こえたとき、源左はもちろん「いま」その声を聞いたのですが、よくよく考えてみると、いまはじめて聞いたのではなく、これまでもずっと聞こえていたと思ったのではないでしょうか。だからこそ、これは本願の声だと思った。本願の声は十劫の昔から聞こえていたはずです。でもちっとも気づいていなかった。いまはじめてその声に気づいたという驚き。
 十劫の昔の声がいま届いた。
 ちょっと横道にそれます。少し前になりますが、いとうせいこうの『想像ラジオ』という変わった小説を読みました。東日本大震災の津波で濁流に飲まれて亡くなった人が、ひっかかった杉の木のてっぺんからDJとして想像ラジオを届けるという奇想天外な筋立てです。この小説のテーマは「死者の声は聞こえるか」ということでしょう。福島でのボランティアから帰る車中で若者たちがこんな会話を交わします。
 宙太:「(ボランティアという)行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか」。
 ナオ君:「いくら耳を傾けようとしたって、溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らに理解できない。聴こえるなんて考えるのはとんでもない思い上がりだし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない」。

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