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『一念多念文意』を読む(その44) ブログトップ

独自の読み方 [『一念多念文意』を読む(その44)]

(2)独自の読み方

 これまでのところをふりかえっておきますと、隆寛が本願成就文を引きあいに出しているのを受けて、親鸞は本願成就文の真髄である「現生正定聚」を明らかにするために丁寧な注釈を施してきたのでした。そして本願成就文そのものの注釈(第2回)にとどまることなく、必至滅度の願、およびその成就文も上げてその深い意味を掘り下げてくれました(第3回)。ここではさらに曇鸞の文(『浄土論』いわく、とありますが、実は『浄土論註』いわく、です)、王日休(中国南宋の居士)の文、そして『観無量寿経』の文を上げ、現生正定聚の姿を浮き彫りにしようとしています。
 まずは曇鸞の『論註』の文ですが、ここでも親鸞独自の思いきった読み方がされています。「剋念願生(こくねんがんしょう)、亦得往生(やくとくおうじょう)、即入正定聚(そくにゅうしょうじょうじゅ)」を普通に読めば「剋念して生まれんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」となるのでしょうが、親鸞は「剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」とかなり無理な独特の読み方をします。
 普通の読みですと、来生に往生したのちに正定聚に入ると解釈される可能性が高くなりますが、親鸞の読みでは、今生で願生し信心を得れば、そのときただちに正定聚に入ることがはっきりします。ですから親鸞にとってはこの読みしかないのです。人によっては、こんな読み方は、経典や論釈に自分の思いを読み込むもので、我田引水であると見ることでしょうが、親鸞としては、経典や論釈自身がそのような読みを迫ってくるのに違いありません。いや、彼は経典や論釈を読んでいるというよりも、そこから聞こえてくる声をほれぼれと聞いているのでしょう。

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