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あることに「気づく」ということ [『一念多念文意』を読む(その47)]

(5)あることに「気づく」ということ

 ここでもまた「見る」と「気づく」のコントラストが浮かび上がります。これまで「気づく」ということばを何度つかってきたことでしょう。そしてその都度その特質にふれてきましたが(第一に「こちらから」ではなく「向こうから」であること、第二に「能動」ではなく「受動」であること、第三に「現在完了」という時制であることなど)、ここで時間の問題に関連して、改めて「気づく」とは何なのかを考えておきたいと思います。
 「気づく」のは間違いなく「わたし」です。しかし「見る」との比較で言いますと、「わたし」の位置づけが違ってきます。こういうことです。「見る」場合、まず「わたし」がいて、しかるのちに「見る」という順序になりますが、「気づく」場合、まず「気づく」があり、しかるのちに「わたし」が登場するということです。「わたし」は「気づき」に遅れをとるのです。
 この間こんな質問がありました、「賜りたる信心とはいうものの、本願を信じるのはあくまで“わたし”のはずです。“わたし”が信じるのでなければ信心の意味がありません。としますと、それはやはり“わたしの信心”ではないでしょうか」と。おっしゃるとおりで、本願を信じるのは紛れもなく「わたし」です。ただ、そのとき「信じる」ことと「わたし」の順序が問題となります。
 まず「わたし」がいて、しかるのちに「信じる」としますと、それは自力の信心になります。でも、まず「信じる」があり、しかるのちに「わたし」が登場することがあります。これが他力の信心です。この他力の信心というのが本願の「気づき」に他なりません。その場合、ます本願に「気づく」、しかるのちに「わたし」がのこのこ現れるのです。

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