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いまここにいることが肯定される [『一念多念文意』を読む(その52)]

(10)いまここにいることが肯定される

 救いとは、家族に恵まれていることでも、豊かに暮らしていることでも、健康でいることでもなく、いまここにいることが肯定されていることです。
 家族に恵まれ、豊かで健康であっても、いまここにいることが肯定されていなければ、その人は救われていません。自分は大津波で奇跡的に家も家族も無事だったが、亡くなった多くの人のことを思うと、いまここにいていいのかと心が動揺しているひとは救われていません。救いとはそういうものです。
 さて、「あなた」はいまここにいることが肯定されていないのに、「わたし」はそれが肯定されているということはあるでしょうか。ありません。
 どうしてか。まず、その肯定は自分ではできません。いや、してもいいですが、悲しいかな、何の効力もありません。「このまま生きていていいのだろうか」という何ともいえない問いが突きつけられているとき、それに「いまここにいることは肯定されているのだ」と自分で答えても、残念ながら何の足しにもなりません。その答えは「向こうから」与えられなければならないのです、「そのまま生きていていい」と。
 そして「そのまま生きていていい」という「たより」が与えられるとき、それは「わたし」だけに宛てられているのではなく、「あなた」にも宛てられています、生きとし生けるものすべてに宛てられています。
 それは「このまま生きていていいのだろうか」という問いは「わたし」だけのものではなく、「あなた」のものでもあり、生きとし生けるものすべてのものだからです。その問いは普遍的な問いですから、答えもまた普遍的でなければなりません。たまたま「わたし」が問いを発したから「わたし」に宛てられただけで、その内容は生きとし生けるものすべてに当てはまるものです。

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