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で、救いはあるのか? [『一念多念文意』を読む(その53)]

(11)で、救いはあるのか?

 法蔵の誓いはどうして「生きとし生けるものすべてが救われなければわたしも救われません」というかたちになるのかということを考えてきました。その答えをまとめますと、救いというものは、もしそれがあるとすれば、生きとし生けるものすべてが救われてはじめて存在するものであるからということです。救いは、それが存在するなら、一切衆生の救いであるということ、そこに「わたし」も「あなた」もないということです。そして救いは法蔵の「よきたより」として「向こうから」やってくる。
 なるほど、救いは、もしあるとすれば、法蔵の「よきたより」としてやってくるしかないということは認めるとしても、どうしてそれがあると言えるのかという問いはまだ残ります。救いなんてそもそも存在しないかもしれません。そして、もし存在しなければ、それは誰にとっても存在しないということになります。救いは、それがあるにしても、ないにしても、「わたし」も「あなた」もありません。さて、それで、救いはあると言えるのでしょうか。
 言えます。このぼくに「よきたより」がやってきているからです。そして、それは先ほど述べた理由で、ぼくだけでなく生きとし生けるものすべてにやってきているはずです。「そんなことを言っても、わたしのところにはきていないが」と言う人がいるかもしれません。しかし、ぼくに届いた以上、あなたにも届いているはずです。その「よきたより」はぼくにだけ送らなければならない私信ではないからです。ですからおそらくあなたにも届いている「よきたより」にあなたは気づいていないと言わなければなりません。
 さて、とうとう最後に問わなければなりません、その「たより」を送ってくれる法蔵とはいったい誰なのかと。

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