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仏智の不思議 [『一念多念文意』を読む(その55)]

(13)仏智の不思議

 あるとき熱心な門徒さんがこんなふうに述懐されたことがあります。「おばあさんがいつも言っていました、わたしたちのことばの届かない先は“不可思議”ということにしておくしかないよと」。
 親鸞はこう言っていました、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせんれう(料)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。…これは仏智の不思議にてあるなり(阿弥陀仏というのは、自然、つまり他力ということを気づかせるための手立てですから、それが分かれば、これ以上とやかく言うことはありません。…これは仏智の不思議というものです)」(『末燈鈔』第5通)。
 あるいはヴィドゲンシュタインも言います、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(『論理哲学論考』)と。しかし、とぼくの好奇心はささやくのです、ことばの届かないところに、何とかしてことばを届かせたい。
 で、ぼくの頭に浮かぶのは、死者たちからの「たより」というイメージです。先ほど言いましたように、生者からの「そのまま生きていていい」は素直に頷けません。「あなたは何さま?」と嫌味を言いたくなる。それは、その人もまた生きていて、その意味では同じ資格なのに、どうしてあなたが?となる。
 その点、死者たちから「そのまま生きていていい」という「たより」がくるとしますと、それは身に沁みます。そこから法蔵からの「たより」とは死者たちからの「たより」ではないのかと思いたくなるのです。法蔵の「たより」は十劫のむかしに発信され、次々とリレーされてぼくに届いたとしますと、それはこれまで生きそして死んだすべての人たちの声ということにならないでしょうか。

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