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「たより」が届いているか [『一念多念文意』を読む(その57)]

(15)「たより」が届いているか

 それはやはり弥陀から「たより」が届いているかどうかということです。「そのままで救われる」という「たより」が確かに届いていれば、「こんな自分でも救われるのだ」という喜びがわき上がりこそすれ、「これからも造悪していいのだ」という思いは決して生まれないでしょう。こんな自分だからまた造悪をすることはあるだろうが、できるだけそうならないようにしなければという気持ちになるはずです。しかし弥陀からの「たより」が届いていませんと、「念仏すればどんな悪人も往生できる」と聞いて、「そうか、ならば遠慮なく造悪すればいい」となるのです。
 いま「念仏すればどんな悪人も往生できる」と聞いて、と言いましたが、そのことと弥陀から「たより」が届くのとどう違うのでしょう。頭に浮かぶのは『歎異抄』後序のあの一節です。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」。弥陀の五劫思惟の願は親鸞への私信なのです。「みんなを助けるぞ」ではなく「親鸞を助けるそ」という「たより」だということ。もちろん弥陀の本願はみんなを助けるのですが、でもその「たより」はそれぞれの人宛に私信として届けられるのです。そして思いもかけず届く声にまるごとキャッチされるということ、ここに弥陀の本願の本質があります。
 それに対して、経典からか、あるいは誰かの口から「念仏すればどんな人も救われる」と聞いて、「そうか、それでは思う存分悪いことをしてやろう」と思うのは、向こうからの声をみずからキャッチして、そこから「ならば、こうしよう」と行動の指針を導き出しています。何だか、先生から数学の公式を聞いて、それによって問題を解くような感じです。聞いているには違いないですが、でも向こうからくる声にキャッチされるのではなく、自分でキャッチしています。「これはもらった」というわけです。そしてそれを手がかりに次にどうすべきかを計らっているのです。

                (第4回 完)

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