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所有の権利 [『一念多念文意』を読む(その62)]

(5)所有の権利

 考えてみますと、「これはオレのものだ」という主張は、周りから「そうだ、それはおまえが仕留めたものだからおまえのものだ」と認めてもらってはじめて有効になります。つまりそれは一種の権利の観念です。しかし彼らにそのような労働価値にもとづく所有権の観念(「労働によって得られたものは、労働をなしたものの所有に帰す」)があるとは思えません。彼らは腹が減ったら食べ、満腹したら寝るだけです。やはり彼らに「わたしのもの」はないと言わなければなりません。
 しかし、「これはオレのものだ」という主張は所有権の観念としてあるのだとしますと、どうして「わたしのもの」をひとの目から隠さなければならないのでしょう。どうして公然たるもの(パブリック)であってはいけないのでしょう。
 理由はただひとつ、「わたしのもの」の権利はいつも他から侵害される危険性があるからです。先ほどのトラに所有観念があるとしますと、残った肉は奪われないようにどこかに隠そうとするに違いありません、これはオレの大事な財産なのだから、と。このように「わたしのもの」という観念には最初から「他からの侵害」がおり込まれています。
 これは不思議といえば不思議です。「自分の力で得たものは、自分のものである」と互いに認め合いながら(そうでなければ「わたしのもの」という観念はもともとありません)、同時にいつなんどき奪われるかもしれないと戦々恐々としているのですから。
 どうして他からの侵害を恐れなければならないか。それは、実は、自分自身の中に「ひとのもの」を侵害しようとする衝動を感じるからです。自分にそういう衝動がある以上、他のひとにもあるはずだから、奪われないようにしなければとなるのです。

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