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あるがままでいい [『一念多念文意』を読む(その66)]

(9)あるがままでいい

 釈迦は苦のよってくるところをじっと見つめ、それが煩悩であることに気づきました。スピノザ流に言えば「苦悩という感情について明晰かつ判明に表象した」ということですが、そうすることで苦悩が「苦悩であることをやめる」のです。
 釈迦は、苦のよってくるところが煩悩であるから、煩悩を滅することにより苦を滅することができると言ったのではないでしょう。そんなふうに解説している本が多いようですが、もし釈迦がそう言ったとすれば、ぼくにはもうついていけません。
 ぼくらに煩悩を滅することができようとは思えないからです。そして煩悩を滅するのはいのち終えるときであるとすれば、ぼくらは死ぬまで救われないという結論になります。いずれにしても釈迦の真意がそこにあるとは思えません。
 では釈迦は何を言おうとしたのか。苦のよってくるところが煩悩であることをじっと見つめることで、苦が苦でなくなると考えたと思うのです。
 「お天道様がみてござる」に戻りますと、「つねに見られている」と感じて、もう逃げ隠れできなくなり、じっとこころの内を見つめる。そこには疚しい思い、はしたない思いがとぐろを巻いています。それをじっと見るのは辛いものです。その辛さを無意識に感じていたから、これまで見ないように、見ないようにしてきたのです。
 ところがそのとき不思議なことが起こるのです。辛さが辛さでなくなるのです。辛いはずなのに、辛いと感じなくなる。そして、これまで見ないように気を張っていたのと比べて、何だかこころが穏やかになっています。もう隠さなくていいというのはどれほどこころ安らぐものでしょう。あるがままでいいというのは何とこころ安らかでしょう。
 これが「つねにてらしまもりたまふ」ということです。

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