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本願の行者にあらざるゆへに [『一念多念文意』を読む(その68)]

(11)本願の行者にあらざるゆへに

 これまで「真実信心のひとおば、つねにてらしまもりたまふ」ということを見てきました。これを裏返して言いますと、真実信心でないひとは「てらしまもりたまはず」となります。本文では「本願の行者にあらざるゆへに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり」となっています。
 いかがでしょう、ここには排他性の匂いがプンプンと立ち込めていないでしょうか。信ずる人はまもってもらえるが、そうでない人はまもってもらえない―この言い方には何か棘のようなものがあります。ぼくのような天邪鬼は「そうですか、じゃあぼくは結構です」と言いたくなります。
 こうした言い方が善導や法然にあるのはやむを得ないとしても、親鸞としては誤解を避けるためにもひとことあるべきではないでしょうか。本願は、この人はいいが、この人はダメといった性質のものではないはずです。ひとりも漏らさず「つねにてらしまもりたまふ」ものでなければならない。このことを突きつめたところに親鸞の偉大があると言うべきでしょう。としますと、この一文はどう理解すべきでしょうか。
 もう一度、ぼくらは見つめられることを嫌がり、身を隠そうとするということに戻ります。それは内なる疚しさから目を逸らそうとすることに他なりません。内なる疚しさを煩悩と呼びましょう。「オレはもっともらって当然じゃないか」と不満をもち(貪)、「どうしてこんなに評価が低いのだ」と憤り(瞋)、「オレはほんとうはもっとすごいのだ」とこぼしながら(痴)、しかしそんなふうに思うのははしたないと感じて表には出さない。
 自分の中にそういう煩悩があるのはうすうす感じながら、でも自分からそれを認めようとはしないものです。そうしたドロドロを見るのは辛いからです。自分の中のドロドロをじっと見るようになるのは、「お天道様が見てござる」と観念するからです。自分で「見る」ようになるのは、他から「見られる」からであるということ、ここに問題を解く鍵があります。

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