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あゝ、もう逃げ回らなくてもいい [『一念多念文意』を読む(その70)]

(13)あゝ、もう逃げ回らなくてもいい

 己れのありのままをじっと見つめざるをえなくなるそのときです、これまであれほど逃げよう、逃げようとしてきたのに、「もうありのままの自分を隠そうとしなくていいのだ」、「そのままの自分でいいのだ」と思える。これまで味わうことのなかった安心です。指名手配され逃げ回っていた犯人がついに逮捕されたとき、どこかホッとした表情をしていないでしょうか、もう逃げ回らなくていいと。
 真実信心のない人は「てらしまもりたまはず」ということでした。これを、信心をもたなければまもってもらえません、としてしまいますと、もはや本願の教えではなくなります。そうではなく、信心をもっていないということは、まもってもらっているのに、そのことに気づいていないということです。すべての人を「つねにてらしまもりたまふ」のですが、そのことに気づいていない。
 「つねにてらしまもりたまふ」にもかかわらず、そこから逃げよう、逃げようとして、暗闇の中に身を潜めている限り、そのありがたさにいつまでも気づくことがありません。これが「摂取の利益にあずからざるなり」ということです。次に出てきます源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえて、みたてまつることあたはずといゑども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまふ」も、そのことを言わんとしているに違いありません。「煩悩まなこをさえて」という表現の妙を味わうべきでしょう。
 煩悩は目を遮らせて己を見させないようにするのです。それには暗闇の中に潜り込むにしくはありません。ところがあるときふと「大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまふ」ことに気づく。暗闇の中に隠れているつもりだったのに、そこにひかりが当たって煩悩が丸見えになっていることに気づきます。それはこれまで何とかして避けようとしてきたことですが、そうなってみますと、不思議や、これまで思ってもみなかった安心があります。「あゝ、このままの自分でいいのだ」という安心です。

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