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大悲ものうきことなく [『一念多念文意』を読む(その73)]

(16)大悲ものうきことなく

 でも、太陽が雲に遮られて見えなくても、光は地上に届くように、阿弥陀仏を見ることはできなくても、その光はぼくらに届き、その光の中で見られています。ぼくらは見られて恥ずかしいと思う。それはぼくらの煩悩がくっきりと照らし出されるからです。「お天道様が見てござる」のです。
 こうして「ああ、来る日も来る日も煩悩の中でもがいているのだ」と気づくのです。この気づきは、煩悩の内にいることの気づきであると同時に、煩悩の外があることの気づきでもあります。煩悩の外は見えません。でも、そこから来る光に自分が照らし出されることで、煩悩の外があることに気づくのです。
 『創世記』に、食べるのを禁じられていた木の実を「これは知恵の実だから食べてみたら」と蛇に唆されたイヴがアダムと一緒に食べたとき、はじめて自分たちが裸であることが恥ずかしくなり、無花果の葉をつづり合わせて腰に巻いたという記述があります。そして神が近づくのを感じた彼らは茂みに入って身を隠したと続きます。
 これらの記述から、禁断の木の実を食べることで「見られている」ことに気づき、恥ずかしくなって身を隠したと理解することができます。それまでも見られていたはずです。でも、見られていることに気づかなかったから何ともなかったのですが、気づいて突然恥ずかしくなった。
 見られていることは、あるときふと気づくしかありません。それは、見られている自分に気づくことであると同時に、自分を見ている何かがあることに気づくことでもあります。自分が煩悩の内にいることに気づくことは、煩悩の外があることに気づくこととひとつです。煩悩の外に何があるかを見ることはできませんが、何かがあることに気づくことはあるのです。それが「煩悩まなこをさえて、みたてまつることあたはずといゑども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまふ」ということです。

                (第5回 完)

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