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『一念多念文意』を読む(その74) ブログトップ

本文11 [『一念多念文意』を読む(その74)]

           第6回 はじめて行者のはからひにあらず

(1)本文11

 「其有得聞彼仏名号(ごうとくもんひぶつみょうごう)」といふは、本願の名号を信ずべしと、釈尊ときたまへる御のりなり。「歓喜踊躍(かんぎゆやく)、乃至一念」といふは、「歓喜」は、うべきことを得てむずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。「踊」は天におどりといふ。「躍」は地におどるといふ。よろこぶこころのきわまりなきかたちなり。慶楽するありさまをあらわすなり。慶はうべきことをえて、のちによろこぶこころなり。楽はたのしむこころなり。これは正定聚のくらゐをうるかたちをあらわすなり。乃至は称名の徧数(へんじゅ)のさだまりなきことをあらわす。一念は功徳のきわまり。一念に万徳ことごとくそなわる。よろづの善みなおさまるなり。「当知此人(とうちしにん)」といふは、信心のひとをあらわす御のりなり。「為得大利」といふは、無上涅槃をさとるゆへに、「則是具足無上功徳」とものたまへるなり。「則」といふは、すなわちといふ。のりとまふすことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり。自然にさまざまのさとりをすなわちひらく法則なり。法則といふは、はじめて行者のはからひにあらず、もとより不可思議の利益にあづかること、自然のありさまとまふすことをしらしむるを法則とはいふなり。一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらわすを法則とはまふすなり。

 (現代語訳) 「それ、かの仏の名号を聞くことを得て」と言いますのは、本願の名号を信じなさいと釈尊が経に説かれていることばです。「歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん」の「歓喜」とは、得るべきことを得たと、先立ってあらかじめよろこぶ心です。「踊」とは、天に踊ること、「躍」とは、地に躍ることです。よろこぶ心のきわまりのない形を表しています。慶び楽しむさまを表しています。「慶」は、得るべきことを得てのちによろこぶ心です。「楽」はたのしむ心です。これは正定聚の位を得た時の様子を表しているのです。「乃至」と言いますのは、称名の回数に定まりがないことを表しています。「一念」とは、念仏の功徳のきわまりを表しています。一念に万徳がすべてそなわっているということ、すべての善がみなおさまっているということです。「まさに知るべし、この人は」とは、信心の人を表すことばです。「大利をうとす」とは、この上ない涅槃を悟るということで、「すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」とも説かれているのです。「則」とは、「すなわち」ということ、あるいは「のり」ということばです。如来の本願を信じて一念しましたら、求めていないのに必ずこの上ない功徳が与えられ、知らないうちに広大な利益を授けられるのです。おのずとさまざまな悟りを直ちに開く法則だということです。法則と言いますのは、もとより行者のはからいによってそうなるではないということ、思い見ることもできない利益に授けられるのは、自然のありさまだということを知らせようとしているのです。一念信心を得る人のありさまが自然であることを表すために法則と言われているのです。

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