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利己的な遺伝子 [『一念多念文意』を読む(その76)]

(3)利己的な遺伝子

 この「もとめざるに」「しらざるに」は、唐突ですが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」を連想させます。
 ドーキンスという生物学者は「生物の個体は遺伝子の乗り物にすぎない」と衝撃的なことを言います。こういうことです、遺伝子はただひたすら己れのコピーを多く残そうとしているのですが、裸のままでいるわけにはいかず、生物の身体をまとわなければならない。生物の個体(われわれ人間もまた)はそんなことを知る由もなく、生きる営みを日々一生懸命に続けているが、何のことはない、遺伝子の乗り物として役割をさせられているだけなのだと。
 そういえば、マルクスが『資本論』で説いたことも似たようなことです。資本家は、金持ちになろうと時間を惜しみながら会社経営に精を出しているが、何のことはない、資本が自己増殖していくために操られているにすぎないと。資本家はあくまで自分が豊かになるために努力していると思っているのですが、実は資本の自己増殖のために使われているだけで、資本に支配されているということです。
 遺伝子の自己増殖、資本の自己増殖は、われらが「もとめざるに」「しらざるに」そのようになっている。あるいはわれらの「はからひにあら」ざるに、そうなってしまっているのです。この見方は、ぼくらの何かを傷つけていないでしょうか。「それはないよ」と言いたくなるものがここにはないでしょうか。前にも話題にしましたが、「生かされている」ということばへの毀誉褒貶もここにつながっています。
 「生かされている」ということばには、宗教のエッセンスとも言うべき香りがあり、それによって癒される人も多いのですが、と同時に、とくに「宗教なんて」と思っている人には反感を買うところがあります。「これだから宗教はいやなんだ」とそっぽを向かれてしまいがちです。何か生け簀の鯉になったような気分というのでしょうか、とにかくそんなの御免こうむりたいと思わせるのです。

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