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知ろうが知るまいが [『一念多念文意』を読む(その78)]

(5)知ろうが知るまいが

 ここまで、親鸞の「もとめざるに」「しらざるに」ということばから、利己的な遺伝子のことを考えてきました。利己的な遺伝子もまた、われらが「もとめざるに」「しらざるに」われらを乗り物として利用して、己のコピーをできるだけ多く残そうとしているということです。それは、弥陀の本願が「もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうる」ようにさせていることと同じように思えるということです。
 しかし類似点はここまでです。
 利己的な遺伝子は、われらがドーキンスのお蔭でその存在を知ることにより、生物の行動についての理解が一段と深まるということはありますが、まあその程度のことです。それはニュートンのお蔭で万有引力の存在を知ることになり、宇宙のありようについての理解が一変したということはありますが、これまたその程度のことであるのと同じです。
 その程度というのは、ものごとのありようをより深く理解するだけで、それ以上に、われらの生きざまに関わるものではないということです。
 利己的な遺伝子の存在を知ることで、「そういうことだったのか」という驚きはありますが、だからといって、これまでの生き方が変るわけではありません。これまで同様、切ない恋をし、結婚を申し込み、そして子どもをもうけるのは何も変わりません。万有引力の存在を知ることで、「そうか、だからものは落ちるのに、ぼくは地球から落っこちないのだ」と納得しますが、そうかといって、これまで同様、歩き、座り、そして寝るという生活を変えるわけではありません。
 こう言ってもいい。利己的な遺伝子や万有引力は、ぼくらがそれを知ろうが知るまいが、そんなことに関係なくずっと昔から存在する、と。

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