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存在するとは [『一念多念文意』を読む(その79)]

(6)存在するとは

 ドーキンスが言う前から利己的な遺伝子は存在したわけですし、ニュートンが発見する前から万有引力はあったわけです。ぼくらはとうの昔から遺伝子の乗り物として利用され、万有引力のおかげで地球から落っこちることはなかった。ドーキンスやニュートンはそうした世界の秘密の一端を垣間見せてくれただけのことです。その発見をうまく使って生活をより豊かにすることはできたでしょうが、まあその程度のことです。
 さて弥陀の本願はどうでしょう。
 本願は、それに気づいてはじめて存在します。気づかなければ存在しない。「おいおい、待ってくれよ。浄土の教えでは、弥陀の本願は十劫の昔に成就されたのではないのか」という声が聞こえてきます。「ということは、それに気づこうが気づくまいが、ずーっと昔から存在していたということではないのか」と。
 そうではありません。「昔の本願はいまはじまる」(曽我量深)のです。その点で利己的な遺伝子や万有引力とは根本的に異なります。これについてはこれまでも考えましたが、より理解を深めたいと思います。
 存在するとはどういうことかという問題(哲学で存在論と言います)ほど厄介なものはありませんが、まあしかし、あるものが存在するということは、それを誰かが知っているかどうかとは関わりないとは言えそうな気がします。ある人が知らないからといって、それは存在しないということにはなりません。
 あるものが存在するかしないかということと、それを誰かが知っているか知らないかということはまったく別のことがらです。誰かが知っていようが知っていまいがそんなことに関係なく存在するもの、これが存在の名に値するものです。

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