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『一念多念文意』を読む(その81) ブログトップ

主観的と客観的 [『一念多念文意』を読む(その81)]

(8)主観的と客観的

 これをクリアすれば存在すると言えるが、そうでなければ存在するとは言えないという条件は何かと考えたとき、真っ先に頭に浮かぶのはやはり客観性でしょう。
 誰にとっても存在すると言えるかどうか、これです。これは先に、存在するかどうかは、それを知っているかどうかには関わらないと述べたことと同じです。知っていようがいまいが、存在するものは誰にとっても存在するということです。もうひとつ言えば、あるものが存在するということは、それを知らない人も、定められた手順を踏めばそれが存在することを知ることができるということです。
 あのスタップ細胞を巡る騒動ではっきりしましたが、誰でも一定の手順を踏めば、あるものが存在することを知ることができる、これが客観的に「存在する」ことの条件です。
 さて、ぼくの個人的な思い出は上にあげた存在の条件をクリアしているとは言えませんから、客観的に存在するとは言えず、したがって公共の場で議論する対象とはならないでしょう。しかし、だからといって、それは存在しないとは断じて言えません。それは紛れもなく存在します。しかもそれはぼくにとって他の何よりも大事な存在であったりします。ただそれは、それをぼくが思い出すことではじめて存在し、それを思い出さない人には存在しないという主観的な存在です。
 弥陀の本願も同じく、それに気づいてはじめて存在し、気づかないと存在しません。そのような特別な存在です。
 先ほど死んだ人のことを上げましたが、死者の存在についてもう一度考えたい。仏教は原則として霊魂の存在を認めないでしょう。無我の教えとそれは矛盾するからです。一定不変のアートマンを否定するのが無我ですから、死んでもなお霊魂が存続するとは言えないはずです。

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