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死者の存在 [『一念多念文意』を読む(その82)]

(9)死者の存在

 ただ輪廻の問題があります。仏教は輪廻を否定しませんから、一筋縄ではいきませんが、まあ原則として霊魂や霊界というものは認めないと言っていいでしょう。少なくとも存在するとは言わないはずです(釈迦は「無記」、つまりこうした形而上学的な問題には答えないというスタンスをとりました)。
 さてしかし死者はどうか。死者も存在しないのか。
 それはないでしょう。釈迦の弟子たちは、亡き釈迦の追憶の中に生きてきました。死者としての釈迦はありありと存在し、釈迦の声ははっきり聞こえたはずです。としますと、霊魂が存在するとは言えないが、死者は存在するということになります。さてこれをどう理解すればいいか。
 存在と言えば、ふつう現在存在を言いますが、もうひとつ、過去存在を考えてみることはできないでしょうか。霊魂が存在するというのは、その現在存在を主張していますが、死者が存在するというのは、その過去存在を言っていると。
 先に、存在の客観性を問題にしました。何かがあるということは、それを知っていようがいまいが、誰にとってもあるということでしたが、これは、何かがあるということは、それが現在存在しているということを意味します。ここで現在といいますのは「いまこの瞬間に」というよりも、「いつも」という意味です。英文法の時間に、現在形という時制は「いつも」「ふだん」という意味だと教わりましたが、あの「いつも」です。
 存在するというからには、ある瞬間に突如存在しはじめ、次の瞬間にはもう存在しないというようなことではないでしょう。長い短いの差はあっても、一定の時間の幅をもって存在しているに違いありません。これが現在存在で、ぼくらが普通に何かが存在するというときは、これがほとんどです。

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