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死者たちの願い [『一念多念文意』を読む(その84)]

(11)死者たちの願い

 過去存在には「もういない」という悲しみの色がついています。「もういない」にもかかわらず、「ありありといる」のです。
 この存在は「誰にも」というわけにはいきません。また「いつでも」というわけにもいきません。それが現在存在と違うところで、現在存在は、こうすれば知覚できるという条件さえ示されれば、いつでも、誰にでも存在しますが、過去存在は、想起する人にだけ存在し、想起するときにだけ存在します。過去存在は、あるとき、ある人がふと想起するのであって、こうすれば誰でもいつでも想起できるというわけにいかないのです。
 存在には現在存在だけでなく過去存在もある(未来存在というのもあるでしょう)、そしてその典型が死者の存在だということを見てきました。
 確かに過去存在はあまりに主観的で、現在存在からすれば存在の名に値しないと言われるかもしれませんが、過去存在を存在の仲間から外してしまいますと、死者たちはその行き場を失ってしまいます。しかしぼくらが生きていく上で、死者たちの存在は現在存在にまけず劣らず大事な役割を果たしています。人はパンのみにして生くるにあらずで、死者たちの思い出が生きる糧になることもあるのです。
 ここでちょっと大胆なことを言います、弥陀の本願というのは死者たちの願いではないでしょうか。
 本願とは仏の願いです。そしてぼくらは死者を仏とよびます。としますと本願とは死者の願いということにならないでしょうか。おいおい、それは飛躍しすぎだよ、と言われそうです。そもそも死者を仏というのは仏教の本来からすればおかしなことじゃないか、と。まったくおっしゃる通りで、仏とはブッダすなわち悟りをひらいた人ということであり、悟りをひらくのはがんらい現世ですから、仏は生きて目の前にいる人のことです。

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