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気がついたら仏がそこに [『一念多念文意』を読む(その88)]

(15)気がついたら仏がそこに

 まず確認しておきたいのは、過去存在を想起するのは、現在存在を知覚するときとは違い、そうしようと思ってのことではないということです。つまり想起すること自体が「気がついたらすでに」であり、「せしめらる」のです。いや、ぼくらは想起しようとするから過去を想起できるのであり、そう思わなければ想起できないよ、と言われるでしょうか。そのように言う人は、何か記憶の倉庫のようなものがあり、そこから必要な記憶を取り出してくるのが想起だというイメージをもっているに違いありません。脳科学者も大脳に記憶野という部分があり、そこに記憶が蓄えられていると言います。
 しかしこれは、大森荘蔵という哲学者が言うように、記憶を過去の「写し(コピー)」と捉えています。それが大脳にいっぱい詰まっていて、必要なときに必要な写しを取り出してくるのが想起だと思っているのです。つまり想起ということを、過去の写しを知覚することと考えています。こうして想起も知覚と同じで、こちらに「われ」が、あちらに「写し」があり、「われ」が「写し」を知覚するとしてしまうのです。しかし記憶は「写し」として大脳の中にあるのではありません。過去にそれがあったその場所にあり、そしてそのようなものとして想起されてくるのです。
 過去存在としての仏(ゴータマ=ブッダ)に戻りますと、それは向こうから想起「せしめらる」のです。過去存在としての仏は「気がついたらすでに」現われていたのです。そして仏が現れるということは、その声が聞こえることに他なりません。何と聞こえるか。「あなたは“われ”に囚われているのですよ。そして“わがもの”に執着しているのです」と聞こえます。その声は否も応もなくこころに沁み込み、そして不思議や、「われ」に囚われていると気づくことで、「わがもの」への執着からおのずと離れることができるのです。これが本願が聞こえるということ、遇いがたくしてすでに本願に遇うということでしょう。

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