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邪定聚と不定聚 [『一念多念文意』を読む(その90)]

(17)邪定聚と不定聚

 親鸞の心持ちを忖度してみますと、前に第11願成就文を取り上げたのはいいが、その解説が行き届かず、とりわけ邪定聚と不定聚については何も言わないままにしてきたのが気がかりだったのではないでしょうか。そこで前半部分(一念の証文)の終わりにあたってその点を補足しておこうということではないでしょうか。
 さて、これまでは「かのくににむまるれば」と読まれてきたのを、「かのくににむまれんとするものは(むまるるものは)」と読むことにより、正定聚を来生から現生に持ってきた親鸞としましては、「かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」をどう理解するのかが大きな問題となります。
 正定聚とは「必ず仏になれる位」、邪定聚は「仏になれない位」、そして不定聚は「仏になれるかどうか不定の位」で、これまでは来生において、そのいずれかになると考えられてきました。しかし親鸞は現生において正定聚となるというのですから、必然的に邪定聚と不定聚も現生のことになります。正定聚も邪定聚も不定聚もみんな現生のことで、その中で正定聚だけが「かのくににむまれる」ということです。
 しかし現生において邪定聚や不定聚であるとはどういうことか、そしてその人たちは「かのくににむまれる」ことができないとはどういうことか。親鸞は『教行信証』化身土巻においてこの問題と格闘したのですが、その要点がここで示されています。邪定聚とは「雑行雑修万善諸行のひと」で、不定聚とは「自力の念仏・疑惑の念仏の人」だということです。
 ここでは明示されていませんが、前者は第19願の行者で、後者は第20願の行者に他なりません。そして正定聚が第18願の行者であることは、その成就文から明らかでしょう。第18願成就文では、名号を聞いて信心歓喜すれば、直ちに正定聚の位につくというのですから。ところが第19願の万善諸行の人も第20願の自力念仏の人も、第18願の本願他力の教えに沿いませんから、邪定聚や不定聚にとどまるわけで、ただ第18願の本願他力を受けとめた人だけが「かのくににむまれる」のです。

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