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往生のために頑張り、そして [『一念多念文意』を読む(その92)]

(19)往生のために頑張り、そして

 その意味では「がんばれ!」とはっぱをかける“幻聴さん”は大事な友達だと言わなければなりません。さてしかし、この友達とばかりつきあっていますと、やがて疲労がたまり、あるときポキンと折れてしまう。松本寛君の場合、路上で倒れ救急車で病院に運ばれることになります。そこで彼が口にしたことばは「やっと病気になれた…」でした。
 ぼくらは勉強や仕事に頑張り、それらから解放された遊びの場でも頑張ってしまう。これはもう性としか言いようがありません。
 秋のある日。小さな庭に柿の木があり、取り残したいくつかの実を見つけて小鳥たちが楽しげに集まってきます。それを見ていて思うのは、彼らは足るを知っているということです。ちょんちょんとついばんでは、すぐ飛び去っていきますから、わずか10個ばかりの実が食べかけの状態でいつまでも残っているのです。ぼくらだったら、他の連中に食べられるより先にたらふく食べておこうと頑張ると思うのですが、彼らは一向に頑張らない。
 ぼくらは一生懸命頑張るようにできています。ですから往生するために万善諸行を頑張り、自力念仏を頑張るのです。これは人間としてごく自然なことで、それを非難するどころか、むしろ大いに敬意を払わなければなりません。ただ、その頑張りの途上でふと気づくことがあるのです、こうして頑張れるのも如来の大きな掌の上にいるからこそだと。弥陀の光明に照らされているからこそ、頑張ることができるのだと。
 こうして第19願も第20願も、ぼくらを第18願へと導くためにあるのだということがようやく了解されるのです。邪定聚や不定聚は正定聚への途上にある人たちのことです。一生懸命、万善や念仏を頑張っているが、いまだ弥陀の光明に気づいていない。でも、気づいていないからといって捨てられるのではありません、気づく機がおとずれるのを気長に待ってもらえるのです。

                (第6回 完)

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