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『一念多念文意』を読む(その94) ブログトップ

先回の要点 [『一念多念文意』を読む(その94)]

(2)先回の要点

 今回の本題に入る前に、先回の要点をかいつまんで述べておきますと、過去存在としての仏(これを過去仏とよびましょう)の声が聞こえるというかたちでしか、無我の教え(「われ」に囚われない、「わがもの」に執着しない)にアクセスできないということでした。自分から無我の教えにアクセスしようとするのは、自分で自分がいないことを証明しようとするようなもので、原理的に不可能であるということ。つまり無我は他力とセットになってはじめて意味があるということです。
 その際、他力といっても、現在存在としての仏(これを現在仏とよびます)の力ではなく、過去仏の力によるということ、ここにミソがあります。現在仏の力によるという場合、どうしても「われ」が現在仏に頼るという形になり、他力ではなく自力となります。一方、過去仏はわれらの方からアクセスできず、過去仏の声が「気がついたらすでに」聞こえていたというかたちでしか遇うことはできません。その声がおのずとわれらのこころに沁み込むとき、不可思議なるかな、「われ」への囚われから離れ、「わがもの」への執着から抜け出していることに気づくのです。
 こうして過去仏としてのゴータマ=ブッダとその教えを受ける仏弟子たちの他力の関係が生まれてきたのですが、さて問題はゴータマ自身です。彼は35歳のとき、菩提樹の下でひとり悟りをひらいたとされますが、それはどのようにして可能であったのかということです。無我の教えに自分からアクセスできないとしますと、それはゴータマも同じはずです。ゴータマを普通の人間ではなく、何か超人的な存在にしてしまうのでない限り(そうすることは仏教を非仏教化することです)、この問いを避けることはできません。
 ここにゴータマ=ブッダにとっての過去仏が登場してくる必然性があります。

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