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浄土の教えと因果応報 [『一念多念文意』を読む(その103)]

(11)浄土の教えと因果応報

 善いことをすればまた人間に生まれかわれたり、天界に行くことができるが、悪いことをすれば畜生に生まれたり、地獄に堕ちたりするという思想と、本願を信じ念仏すれば極楽往生できるという思想は、まったく異質なものであることがお分かりいただけたと思います。
 本願は「一切衆生を極楽往生させたい」というものである限り、善人も悪人も分け隔てなくみんな極楽往生して仏になるのではないでしょうか。そして死んだ人はみな仏の仲間として「一切衆生を極楽往生させたい」という本願の声を生きている人たちに届けてくれるのではないでしょうか。
 浄土の教えは因果応報への囚われからぼくらを自由にしてくれます。
 因果応報への囚われと言いましたが、因果応報の思いがあるからこそ「諸悪莫作、衆善奉行」という意思が生まれるのではないか、という疑問の声が出ることでしょう。だいたい、法を定め、刑罰を科すというのは、因果応報を人為的に導入しているということに他ならず、それがなければ秩序を維持することができなくなるに違いありません。ですから社会生活を営んでいくためには因果応報のシステムはなくてはならないと言わなければならず、因果応報にはむしろ拘らなければならないと。
 それはその通りだと思いますが、問題は、そのように言うとき、そう言っている人はどこにいるかということです。声高に社会の悪を抑止しなければならないと言う人は、自分は善人だと思っているか、善人とは言えないまでも、少なくとも己の悪を自分の力で抑止できると思っているはずです。だからこそ、他人の悪に対して腹が立って仕方がないのです。自分はこんなに頑張って悪を押さえ込んでいるのに、なんであいつはすぐ悪に手を出すのか、あんなヤツは地獄に堕ちろ、となる。

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