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『一念多念文意』を読む(その109) ブログトップ

本文14 [『一念多念文意』を読む(その109)]

            第8回 ふたごころなく

(1)本文14

 「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり、一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなく、もはら修するなり。修は、こころのさだまらぬをつくろいなほしおこなふなり。専はもはらといふ、一といふなり。もはらといふは、余善他仏にうつるこころなきをいふなり。「行住座臥不問時節久近(ぎょうじゅうざがふもんじせつくごん)」といふは、「行」はあるくなり。「住」はたたるなり。「座」はゐるなり。「臥」はふすなり。「不問」はとはずといふなり。「時」はときなり。十二時なり。「節」はときなり。十二月四季なり。「久」はひさしき、「近」はちかしとなり。ときをえらばざれば不浄のときをへだてず、よろづのことをきらはざれば、不問といふなり。「是名正定之業、順彼仏願故(ぜみょうしょうじょうしごう、じゅんぴぶつがんこ)」といふは、弘誓を信ずるを報土の業因とさだまるを、正定の業となづくといふ。仏の願にしたがふがゆへに、とまふす文なり。

 (現代語訳) 「一心専念」と言いますのは、「一心」とは金剛のような堅い信心です。「専念」とは一向専修ということで、一向は他の善に移ることなく、他の仏を念じないこと、専修は本願に誓われているみ名をふたごころなく、もっぱら称えることです。修と言いますのは、こころが定まらないのを繕いなおして行うということです。専とは、もっぱらということ、ただひとつということです。もっぱらと言いますのは、他の善や他の仏にこころが移らないことです。「行住座臥時節の久近を問わず」と言いますのは、「行」は歩くこと、「住」は立つこと、「座」は座ること、「臥」は臥すことです。「不問」とは、問わないということです。「時」はときです。一日を十二時に分けたときです。「節」もときです。一年を十二月に分け、四季に分けたときです。「久」はひさしい、「近」はちかいということです。時を選ばないのですから、不浄とされる時も関係なく、あらゆることを厭いません。ですから問わないというのです。「これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」と言いますのは、弘誓を信じることがそのまま浄土へ往生することに定まることですから、それを正定の業と名づけるのです。それは仏の願によるからです、という文です。

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