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いかなる条件もなく [『一念多念文意』を読む(その118)]

(10)いかなる条件もなく

 これは隆寛が「浄土門にいりて、善導のねんごろなるをしへどもをやぶりもそむきもせんずるは、異学・別解の人にはまさりたるあだにて(浄土門に入りながら、善導のねんごろな教えを破ったり背いたりするのは、浄土門とは異なった教えや他の見解に従う人よりさらに困った人であり)」と嘆いているのを受けています。
 親鸞は「一念多念のあらそひをなすひとおば、異学・別解のひととまふすなり」と言い、そして「これらのひとはひとへに自力をたのむものなり」と言いますが、実にすっきりと小気味よい。さらに「自力といふは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ。わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」と余すところがありません。
 さて、「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」ことにより「一念多念のあらそひ」など、さまざまな争いに巻き込まれることになる、このことについて考えてみたいと思います。少し前になりますが、いい文章に出会いました。中日新聞の文化欄に「宗教の普遍性」という題で載せられたもので、晴佐久昌英氏というカトリックの司祭が書いた文章です。
 「『あなたは必ず救われる』。キリスト教は、すべての人にむかって、そう宣言する。…『すべての人』というからには、いかなる条件もない。特定の宗教を信じていてもいなくても、善人も悪人も、およそこの世に生を受けた人間すべてである。…その救いを知って目覚めた人は喜ぶし、その救いを知らずにいる人は苦しんでいる。だからこそ、教会は救いの宣言を使命としているのだ。…」
 いかなる条件もなくすべての人が救われる、と言い切っています。イエス=キリストを信じなさい、そうすれば救われます、とは言いません。信じていてもいなくても救われると言う。これはほんものだと思いました。

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