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すべての人が救われる [『一念多念文意』を読む(その119)]

(11)すべての人が救われる

 「信じても信じなくても救われる」とはなかなか言えるものではありません。ただちに「じゃあイエス=キリストを信じることに何の意味があるのか」、「キリスト教という宗教自体が必要なくなるじゃないか」と、カトリックの司祭である自分にクエッチョンマークがつくからです。
 彼はそれにこう答えます、「その救いを知って目覚めた人は喜ぶし、その救いを知らずにいる人は苦しんでいる」と。いかなる条件もなく「すべての人」が救われるのだが、それを知らずにいる人はいま現に苦しんでいる。だから「教会は救いの宣言を使命としているのだ」ということです。教会はイエス=キリストを信じなさいと説くでしょう。しかしイエス=キリストを信じれば救われるとは説かない。信じようが信じまいが「すべての人」が救われると説くのです。
 つまりこういうことです。イエス=キリストを信じなさいと説くことは、「すべての人」が救われると説くことに他ならないのです。イエス=キリストを信じることは、「すべの人」が救われると信じることなのです。ひるがえって、浄土の教えが本願を信じなさいと説くことは、「すべての人」が仏になれる、つまりは救われると説くことに他ならないのではないでしょうか。
 としますと、キリスト教も「すべての人」が救われると説き、浄土教も「すべての人」が救われると説きますから、まったく一致します。そこに争いが入り込む余地は一切ありません。ところが、もしキリスト教が「イエス=キリストを信じる人は救われる」と説き、一方、浄土教が「弥陀の本願を信じる人は救われる」と説きますと、そこでは否応なく争いが生まれてきます。
 これまでキリスト教とイスラム教が血で血を洗う抗争を繰り返し、またカトリックとプロテスタントが殺し合いをしてきたのは、双方が「かくかくしかじかを信じる人は救われる」と主張して譲らなかったからです。

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