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わがみをたのみ、わがこころをたのむ [『一念多念文意』を読む(その120)]

(12)わがみをたのみ、わがこころをたのむ

 いかなる条件もなくすべての人が救われると言いきれるかどうか、ここに問題の核心があります。「わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひと」は、こうは言えません。口では「すべての人が」と言っても、こころのどこかで「でもやはり」と線を引いています、こちら側の人は救われるが、あちら側の人は救われないと。
 どうして「わがみをたのみ、わがこころをたのむひと」は、いかなる条件もなく「すべての人」が救われると言えないのでしょう。言うまでもありません、無条件に「すべての人」が救われるならば、「わがみをたのみ、わがこころをたの」むことが何の意味もなくなるからです、まったく評価されなくなるからです。
 突然ですが、コミュニズムについて考えてみましょう。コミュニズムには、平等に分配される理想的な社会というプラスのイメージとともに、どんなに一生懸命に働いても、働かずにブラブラしている者と同じだけしか分配されないのでは働く気力がなくなるのではないかという深刻な疑念がつきまといます。
 やはり働いた分だけ「わがもの」にできなければと思う。それは「資本主義に毒された歪んだ思想」でしょうか。そうではないと思います。「わたし」が「わたし」である限り、「わがもの」への執着は必然であり、したがって無条件の平等(それは無所有に他なりません)に対する抵抗は避けられません。そこを錯覚して、「わがもの」=私的所有の観念は階級社会の産物であり、否定しなければならないとするところから、たとえばポルポト派の悲劇が生まれてくるのではないでしょうか。
 さて、「わがみをたのみ、わがこころをたのむひと」は、いかなる条件もなく「すべての人」が救われるとは言えないとしますと、もう誰ひとりとしてそう言えないということになります。誰ひとりとして「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」ことなく生きていくことはできないからです。ぼくらが生きるということは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」ことに他なりません。

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