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本文16 [『一念多念文意』を読む(その123)]

       第9回 一如宝海よりかたちをあらわして

(1)本文16

 隆寛が次に善導の『法事讃』の文「上尽一形至十念三念五念仏来迎、直為弥陀弘誓重、致使凡夫念即生(上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもって、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す)」を引用するのを親鸞が丁寧に解説しています。

 「上尽一形」といふは、「上」はかみといふ、すすむといふ、のぼるといふ、いのちおはらむまでといふ。「尽」はつくるまでといふ。「形」はかたちといふ、あらわすといふ、念仏せむこと、いのちおはらむまでとなり。「十念三念五念のものもむかへたまふ」といふは、念仏の徧数(へんじゅ)によらざることをあらはすなり。「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」は正しきなり、如来の直説といふなり。諸仏のよにいでたまふ本意をまふすを、直説といふなり。「為」は、なすといふ。もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、これといふ、あふといふ。あふといふは、かたちといふこころなり。「重」はかさなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせむとなり。

 (現代語訳) 「上一形を尽くし」と言いますのは、「上」は「かみ」ということ、「すすむ」ということ、「のぼる」ということで、いのち終わるまでということです。「尽」は「つきるまで」ということです。「形」は「かたち」ということ、「あらわす」ということ、念仏をすること、いのち終わるまでということです。「十念三念五念のものもむかへたまふ」と言うのは、念仏は数によるものではないということです。「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもって」と言いますのは、「直」は「正しい」ということ、如来の直説ということです。諸仏がこの世に現れたもうた本意を説くことを、直説と言うのです。「為」は「なす」ということ、「用いる」ということ、「定まる」ということ、「かれ」ということ、「これ」ということ、「あう」ということです。「あう」というのは、「かたち」のことです。「重」は「かさなる」ということ、「重い」ということ、「厚い」ということです。本願に誓われた名号は、弥陀によって往生の業と用いられ定められていることを、諸仏が重ね重ね知らせようとしているのです。

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