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諸仏出世の本懐 [『一念多念文意』を読む(その124)]

(2)諸仏出世の本懐

 隆寛としては「上尽一形至十念三念五念仏来迎(上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ)」の箇所に主眼があるのでしょうが、親鸞はむしろ後半の「直為弥陀弘誓重(ただちに弥陀の弘誓重なれるをもって)」の部分に重きをおき、親鸞らしく、思いもかけない注釈を施していきます(最後の「致使凡夫念即生」については、もう少し先で触れられます)。
 思いがけないと言いますのは、「直」ということばを「如来の直説」と結びつけ、さらに直説というのは「諸仏のよにいでたまふ本意」を述べていることだとするところです。如来の直説というのは、すでにありましたように(第7回)、『阿弥陀経』のことを指しています。『阿弥陀経』は「無問自説」で、釈迦が世にいでたもうた本意を釈迦みずから述べているということでした。その出世の本意とは言うまでもなく弥陀の本願を説くことです。「直」という一字からこのようなことに結びつくのは、善導のこの文が『法事讃』の文であることに関係あるでしょう。『法事讃』というのは、『阿弥陀経』を読みながら浄土を願生する方式について書かれた書物ですから。
 そして「為」とは「なす」「もちいる」「さだめる」ということで、「重」は「かさなる」ということだから、「為弥陀弘誓重(弥陀の弘誓重なれるをもって)」は「誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれり」という意味になると解釈していきます。これを先の「如来の直説」とつなげますと、阿弥陀仏が名号を往生の業(衆生を救うための手立て)として「もちゐさだめなしたまふ」たことを、十方世界の無数の諸仏が衆生に「重ねて」知らせること、ここに諸仏出世の本懐がある、ということになります。
 ともあれ、このあと親鸞がどのように論を展開していくかを見てみましょう。少し長い文になりますが、ここで大事なことが述べられます。

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