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真実に直接アクセスできないか [『一念多念文意』を読む(その128)]

(6)真実に直接アクセスできないか

 このように見てきますと、真実と方便というのは、単に浄土門と聖道門のことを言っているのではなく、「いろもなく、かたちもましまさ」ない「一如」と、どのようなものにせよ、かたちをとった「教え」のことを指していると見るべきでしょう。浄土門も聖道門もしょせん方便にすぎないのです。「こころもおよばれず、ことばもたへた」ものとしての「一如」に直接アクセスすることはできず、どのみち方便によらざるをえないということです。しかしどうして真実に直接アクセスできないのでしょう。どうして方便に頼らなければならないのでしょう。
 科学は真理に直接アクセスしようと日々努力しているのではないのでしょうか。どうして仏教においては真理にアクセスできないのか。
 仏教において真理はいろいろによばれます。一如とよばれ、真如とよばれ、さらには無我とよばれ、空ともよばれます。手元にある仏教辞典で真如を引いてみますと、「かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対窮極のありまた。すべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう」とあります。いろいろ苦労して書いてありますが、われらの分別を超えている以上、しょせん親鸞の言うように「こころもおよばれず、ことばもたへたり」です。
 「さようですか、そんなものでしょう」とあっさり引き下がればいいのですが、どっこい、われらの分別はそう簡単には引き下がってくれません。アクセスできる真理がいっぱいあるのに、どうして仏教の真理はアクセスできないのか、と文句を言いたくなります。アクセスできないような真理は、あると思われているだけで、実は存在しないのではないか、と疑いをかけたくなります。

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