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方便の語り [『一念多念文意』を読む(その132)]

(10)方便の語り

 もう一度「わがもの」に戻ります。ぼくらはお金や地位や名誉や健康や、あるいは妻や子どもや友人や、その他ありとあらゆるものを「わがもの」にしようとし、そこからさまざまな苦しみが湧き出てくる。これがすべてのスタートです。そして「わがもの」への執着が生じる根源には「われがある」という思いがある。「われがない」ところでは「わがもの」への執着はおこりようがありません。
 としますと「われがない」という真理をつかみとれば、あらゆる苦しみからオサラバできるということになりますが、どんな真理であれ、それをつかみとるのは「わがもの」にすることです。ここにはどうしようもないアポリアがあります。このように「われがない」と言えないとしますと、どう語ればいいのか。
 このところ釈迦が実際に語ったであろうと思われることばを求めて、最古の仏典を渉猟していますが、もっとも古いとされる『スッタニパータ』の、なかでもいちばん古い層といわれる第4章「八つの詩句の章」にはこうあります。
 「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。/欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。
 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執着をのり超える」。
 煩瑣な教義は何もありません。「わがもの」への執着がさまざまな苦しみの根源だから、それを回避すれば苦しみに悩まされなくてすむと実に平易に説いています。これが釈迦の語りであり、そしてこれが方便の語りでしょう。

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