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肯定と否定の中道 [『一念多念文意』を読む(その136)]

(14)肯定と否定の中道

 「わがものはない」という声が聞こえますと、「わがもの」への執着を肯定するのでも、否定するのでもなく、その中道を行くようになる。
 「わがもの」への執着を肯定して生きるのは快楽の生き方で、否定するのは苦行の生活でしょう。釈迦はカピラ城の王子として幸せな生活を送っていたのを突如打ち切り、出家して苦行の生活に入りました。執着の肯定から否定への転換です。しかし六年に及ぶ苦行をまた突然打ち切り、樹下の瞑想に入ります。かくして執着の肯定と否定の両極端を避け、その中道をとるのですが、そのときの彼には「わがものがない」という真理の声が聞こえていたに違いありません。
 しかし真実の声が聞こえて肯定と否定の中道の生き方をするようになるというのは実際のところどういうことでしょう。
 もう一度『正法眼蔵』の「諸悪莫作、衆善奉行」の話ですが、道元は白楽天と道林の対話を紹介したあと、次のように白楽天をこき下ろします。なるほど白楽天は文学の世界では文殊といい、弥勒と言ってもいい巨人だが、「しかあれども、仏道には初心なり、晩進なり。いはんやこの諸悪莫作、衆善奉行は、その宗旨、ゆめにもいまだみざるがごとし」と。
 そしてこのことばの意味について、次のように述べるのです。
 「この諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作してかくのごとくあらしむるにあらず。菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。…無上菩提の説著となりて聞著せらるるに転ぜられて、諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す」と。
 それにしても、道元の文章はどうしてこうも分かりにくいのでしょう、もっと平明に言えないものかと文句をつけたくなります。

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