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本願がいまはじまる [『一念多念文意』を読む(その142)]

(5)本願がいまはじまる

 本願の声をいまはじめて聞きながら、もうずっと前から聞いていたと感じる。これが「昔の本願がいまはじまる」(曽我量深)ということです。
 本願はずっと昔から(十劫の昔から)あったが、それが「いま」はじまる。「いま」はじまらなければ、本願はどこにも存在しない。「いつやるか。いまでしょ」ということばが一世を風靡しましたが、それをもじって言えば、「いつはじまるか。いまでしょ」ということです。本願は永遠ですが、「いま」はじまらなければ存在しない、「いま」本願がはじまるというのは、「いま」本願に遇うということ、「いま」本願の声が聞こえるということに他なりません。
 そしてその本願に「まうあふてむなしくすぐるひとなし」です。「いま」本願に遇えば、そのまま「むなしくすぐる」ことはないというのです。「むなしくすぐる」とは「むなしく生死にとどまる」ことだと親鸞は解説してくれます。「むなしく生死にとどまる」とは、生死の苦海を浮き沈みしつづけるということ、あるいは煩悩を煩悩とも気づかずに翻弄されつづけることと言えばいいでしょうか。「いま」本願に遇うと、もう苦海を浮き沈みすることも、煩悩に翻弄されることもなくなるというのです。源左のことばでは「世界が広いやあになってように安気になりましたいな」。
 苦海が苦海でなくなるわけではありません、煩悩が煩悩でなくなるわけではありません。逆です、苦海が苦海になり、煩悩が煩悩になるのです。しかし、そのことで苦海を安心して苦しむようになり、煩悩を安心して煩い悩むようになるのです。これが正定聚の位につくということです。

タグ:親鸞を読む
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