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本文19 [『一念多念文意』を読む(その143)]

(6)本文19

 「致使凡夫念即生(ちしぼんぷねんそくしょう)」といふは、「致」はむねとすといふ。むねとすといふは、これを本とすといふことばなり。いたるといふ。いたるといふは、実報土にいたるとなり。「使」はせしむといふ。「凡夫」は、すなわちわれらなり。「本願力」を信楽するをむねとすべしとなり。「念」は如来の御ちかひをふたごころなく信ずるをいふなり。「即」は、すなわちといふ。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらゐにさだまるを「即生」といふなり。「生」は、むまるといふ。これを「念即生」とまふすなり。また「即」は、つくといふ。つくといふは、くらゐにかならずのぼるべきみ(身)といふなり。世俗のならひにも、くにの王のくらゐにのぼるおば、即位といふ。位といふは、くらゐといふ。これを東宮のくらゐにゐるひとは、かならず王のくらゐにつくがごとく、正定聚のくらゐにつくは、東宮のくらゐのごとし。王にのぼるは、即位といふ。これは、すなわち無上大涅槃にいたるをまふすなり。信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたるとちかひたまへるなり。これを「致」とすといふ。むねとすとまふすは、涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。

 (現代語訳) 「凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と言いますのは、「致」は「むねとする」ということです。「むねとする」というのは、「本とする」ということです。あるいは「至る」ということで、真実の浄土に至るということです。「使」とは「せしめる」ということです。「凡夫」とは、われらのことです。ですから、われらは「本願力」を信じることをむねとしなければならないということです。「念」とは、如来の御誓いを二心なく信じることです。「即」とは、「すなわち」ということです。ときをおかず、日をへだてずに、正定聚の位に定まることを「即生」と言うのです。「生」は、「うまれる」ということで、信心が定まったその時に正定聚の位につくことを「念即生」というのです。また「即」は、「つく」ということです。「つく」と言いますのは、ある位に必ずのぼるべき身ということです。世俗でも、国王の位にのぼることを「即位」と言います。「位」とは、「くらい」ということです。東宮の位にいる人は必ず王の位につくように、正定聚の位につくのは、東宮の位につくようなものです。王になることを「即位」と言います。これは、無上の涅槃に至ることをたとえているのです。信心を得た人は正定聚の位につき、必ず悟りをひらくとお誓いになりました。このことを「むね」とすると言っているのです。むねとすると言いますのは、涅槃の悟りをひらくことをむねとするということです。

タグ:親鸞を読む
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