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即はつくといふ [『一念多念文意』を読む(その144)]

(7)即はつくといふ

 ようやく隆寛の引用した「上尽一形至十念三念五念仏来迎、直為弥陀弘誓重、致使凡夫念即生(上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもって、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す)」に戻ってきまして、その最後の一句「致使凡夫念即生」を注釈しています。ここでもまた親鸞流が満載ですが、なかでも注目したいのが「即」です。
 まず「“即”は、すなわちといふ。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらゐにさだまるを“即生”といふなり」と述べるのは順当ですが、つづいて「また“即”は、つくといふ。つくといふは、くらゐにかならずのぼるべきみといふなり」と意表をつくことを言います。なるほど言われてみれば、即には「すなわち」や「ただちに」という意味と、「つく」という意味があることに思い至りますが、この文の中では思いもよらない発想です。
 漢和辞典を引いてみますと、即は「食べものの前に人がひざまずいている様子」をあらわすそうです。人が食事につくことから「つく」に使われ、さらに「くっついてはなれない」ことから「すはわち」や「ただちに」の意味が生まれてきたのでしょう。親鸞はこうしたことばの意味のひろがりを融通無碍に行き来していたのだと感心させられますが、さて、即を「くらいにつく」と理解した上で、正定聚の位につくことを東宮の位につくことになぞらえます。これが何とも分かりやすい。
 正定聚とは仏になることが約束された位ですから、王(天皇)になることが約束された東宮と同じというわけです。王になることが約束された東宮は、いまだ王ではありませんが、もう王にひとしいと言えるように、仏になることが約束された正定聚は、いまだ仏ではありませんが、すでに仏にひとしい。

タグ:親鸞を読む
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