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信心のひとは、正定聚にいたりて [『一念多念文意』を読む(その145)]

(8)信心のひとは、正定聚にいたりて

 ここまでのところ、この譬えは完璧ですが、さてしかし問題はこれからです。東宮の位は特別の人がつくものですが、正定聚の位にはそういう資格は一切ありません。みんな正定聚の位につくのです。いや、みんなすでに正定聚の位にいるのです。ただ、それに気づいているか、気づいていないかの違いがあるだけ。
 ここで「待った」がかかるかもしれません。
 「信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたる」とあるように、信心をえた人が正定聚の位につくのであって、「みんなすでに」というのはおかしい、と。これまでくり返し考えてきた論点ですが(近いところでは第8回)、要となることですので、改めて確認しておきたいと思います。
 もし信心をえた人が正定聚の位につくとしますと、信心のない人はそこから排除されます。つまり信心が正定聚であることの、したがって仏となることの条件となるのです。これは自力の論理であり、親鸞の他力思想とは相容れません。
 前に「本願を信じ念仏を〈まうさば〉仏になる」という『歎異抄』第12章の文言を検討したことがあります。これは唯円が浄土の教えを約めて述べていることばですが、親鸞ならそうは言わず、「本願を信じ念仏を〈まうせば〉仏になる」と言うのではないかと思うのです。
 「まうさば」は「まうす」の未然形に「ば」という助詞がついた形ですが、未然形に接続する「ば」は「仮定条件」を意味しますから、「もうしますならば」となります。一方「もうせば」は「まうす」の已然形に「ば」で、已然形に接続する「ば」は「確定条件」を意味し、「もうしていますから」の意味となります。

タグ:親鸞を読む
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